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踊る!ディスコ室町のギター

橋を架けること

 東京オリンピック・パラリンピック競技大会組織委員会の会長(83歳男性・元首相)の発言に非難が集まっている。「女性のいる会議は長い」云々。ありえない言葉であり、許されるものではない。その後の会見も最悪。

 しかし一方で、抗議のコメントを読んでいるとき、どこか居心地の悪いような気持ちが自分のなかにあることにも気付く。果たして自分は、これまで女性やマイノリティに対して、常に「あるべき態度」でいただろうか?

 答えは、残念ながら否である。

 

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 先週末、京都市美術館の特別展「平成美術:うたかたと瓦礫(デブリ)1989―2019」を見に行った。

 あまり予習せずに行ったのだけど、会場をぐるぐる回ってみて気になったのは"橋"だった。会場の真ん中にドンと設置された橋(というか階段)。

隣接する武蔵野美術大学朝鮮大学校の2 つの展示室を会場に、両校の境界にある壁(塀)に橋を仮設しつなげた展覧会「突然、目の前がひらけて」は、どのような橋を仮設するかを通して、対話をテーマに企画したプロジェクトでした。

"私たちの間にある隔たりとは何か?"と、双方の立場を明確にし、違いをあえて強調する壁の存在は、 一方では自身を守るための壁であったにもかかわらず、対話の中でしばしば「私」の足元をぐらつかせました。

「私」はいま誰の物語(それはイデオロギー、歴史、立場から発現する)を語り、一方で相手は「私」を どのように捉えて言葉にしているのだろう。 突然、目の前がひらけて境界を跨ぐと、それぞれが見た風景はまったく別のものでした。

(「突然、目の前がひらけて」開催趣旨より)

 

 橋は「突然、目の前がひらけて」という名前の付いた作品(の一部)らしい。武蔵野美術大学朝鮮大学校の学生が、両校を隔てる塀に橋を架けるというプロジェクトを核にした企画。会場では、再現された橋と、プロジェクト中にメンバーのあいだで交わされたやり取り(メールとか議事録)が展示されていた。

 僕のようなもんでも名前を知っている「ムサビ」と、失礼ながら存在も知らなかった朝鮮大。ある意味で対象的な2校が壁一枚で隣り合っている*1事実そのものがセンセーショナルだし、プロジェクト中の対話の中身も生々しくて、メンバーの迂闊とも思える発言にハラハラする。

 

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パンフレットより

 

 プロジェクトのタイムラインやメンバーの会話を読むと、そこにあるのは公明正大な仲良し関係ではなく、もっとヒリヒリした空気だ。メモには「会話噛み合わず 何を話せばいいやら」「武蔵美側からの質問が多い」「在日問題、歴史問題について聞く 他人事みたいですよねといわれ凹む」など。意識していようがしていまいが、壁の双方にはマジョリティー/マイノリティーとしての立場がある。というか、”意識していない”と思っているのは、マジョリティーの方だけだ。

 

 この展示が気になったのも、自分がある種の居心地の悪さを感じたからなのかもしれない。橋やプロジェクトのタイムラインを前にして、マジョリティーとしての自分とその暴力性を暴かれたようだった。

 不当な差別や、それに加担するような言動を目の当たりにしたとき、自分はどう反応してきただろう。何もしてこなかったならそれは、加担しているのと同じではないか? 

 

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 モヤモヤしたまま自宅に帰って、寝る前にポッドキャストを聴く。軽音サークルの先輩たちが主宰している番組(ゲストも同じサークルの後輩)。なんの気なしに再生したところ、まさに橋の展示を見てからグルグル考えていたような内容が語られていて目が覚めた。

 

(惠)

 差別の話をするときって、絶対自分が何かしらのマジョリティじゃないですか。マイノリティ性もたぶんもっているけど、でも何かしらのフレームで見たときにはマジョリティに入っているところがあって。なんかその…罪悪感みたいな、特権性みたいなところにひるんじゃうっていうのがあると思ってて。

 特に性差別だったら、被害者と加害者みたいな構図があって、自分がもしかして加害者側じゃない?って思うことってたぶん、みんなあって。それで、触れにくい話になっちゃってると思う。

 

(Jomni)

 僕もさっきの話(過去にミソジニーを抱えていたこと)はそんな感じです。自分が加害者としてあり続けてきたのに、そういうこと(フェミニズムジェンダーの話題)を発信したとして、昔の自分を知っている人にどう思われるやろうと。そういうことを思うこと自体も何言ってるねんってなるかもしれないですけど。

 

(惠)

 もやもやしちゃいますよね。

 そう、構造的に加害者、みたいなことですよね。自分が手を下してなくても、構造的に加害者になっちゃってるんじゃない?みたいなところで自分をかえりみちゃうと、何も言えなくなってしまうことって本当にあるなーって思うんですけど。

 でもそれって、罪はないんですよね。自分がもし構造的な加害者だったからといって。罪はないんだけど、それを自覚しないと、っていうのは思いますね。自覚はしてないとなって。

Agura Tsushin【アグ通】#25 より書き起こし

 前後の会話でJomni・森の両氏は過去のミソジニーを告白しているけど、同じサークルにいたときのことを振り返ると、自分にも当てはまるものがある。メンバーの半分を女性が占める団体でも、ホモソーシャルな空気は間違いなくあったし、直接的にひどいことを言ったりしたことも覚えている。そうした過去があるからこそ、このポッドキャストでの会話が刺さる。

 そんなこともあって、僕自身は「構造的な加害者」が無罪だとは思わないけど、後ろめたさのせいで対話ができなくなってしまうのであれば、それはよくないと思う。そして、むしろ有罪であるからこそ意識的に考えを改めていく必要がある。

 

 お互いを知っているからこそ話題にしにくい内容に関して、こんなにくだけた雰囲気で話ができるのはカッコいいし、話をしてもいいんだなと思わされるような回だった。やっぱり、自分をどんどんアップデートできる人間がカッコいいし、それがあるべき態度だろう。

 

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 一人でウームしんどいなと考えていたことについて、思いがけずヒントを見つけた週末だった。「橋」について周辺情報を集めるなかで読んだ記事のなかにもハッとする部分があったので、これを引用してこのエントリを締めたい。

 誰か、つまり他者と共にいたい、いなくてはならないという強い意志を持ち、自覚的にコミットすることなしに他者と共在することはもはや困難なのだということだ(社会学の議論を持ち出せば、たとえばゴフマン的な儀礼的無関心のような装置も、ただ無意識のうちに行われているのだとしたら、それによって共在が可能だったフェイズは終わったのではないか)。

武蔵美×朝鮮大「突然、目の前がひらけて」展に思うこと――ただぼんやりしていても共にはいられない時代に 韓東賢 | 日本映画大学准教授(社会学)(太字は引用者) 

 反省しながら、自覚的にやっていくしかないのだ。橋を架けるためには協力が必要で、そのためには自戒も必要だ。

 

 

 ところで今日、冒頭で触れた会長の辞任と、その後任人事が発表された。

 次に会長職に就く人物は、辞任することになった元首相の状況に「本当につらかったろうなと思って、涙が止まらなかった」という。そこには、あるべき問題意識はない(ように見える)。

 満足な対話のないまま、自ら可視化してしまった壁の両側に、彼らは橋を架けることができるのだろうか。

 答えは、当然否である。 

 

 

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