songdelay

踊る!ディスコ室町のギター

創造と破壊のチャイ屋さんの記事

またデイリーポータルZで記事を書きました!

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誰かにインタビューする記事って初めてだったので、インタビューが得意なライター・まいしろさんの話を参考にしました。

まいしろ:
基本的に切れば切るほどいいって思ってる節があります。
サビだけ残せばいいやって思いながら、やってる。

石川:
それはホントそうですよ。
あんまり経験ない人って、切れないんですよね。

まいしろ:
何本も書くうちに切ることに対する胆力がついて、切りまくれるようになりました。

石川:
切れる強さだ
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このやり取りを読んでいて改めて思ったけど、文章を書くって、0から1を生み出していくようで、実は10集めたものを1まで削る作業なんですよね。

苦労して集めてきた素材は、全部使いたくなるし、実際使ってもいいけど、読みやすさとか、リズムをコントロールしようと思うと、使うべき部分とそうでないものの取捨選択が必要になる。

文章によるコミュニケーションって発信者・受信者の協力関係によって成り立っている(し、他のメディアよりも受信者が担当する部分が大きい)ので、道に迷わないように最初に地図を見せるとか、分かれ道を少なくするとか、そういう工夫をすると親切なのかも。


…ということで、今回も記事に入れるか迷って、泣く泣く切った部分があり、そのうちの一つが「アイスチャイ出すかどうか問題」。


Watte chaiでは夏季限定でアイスチャイ(コールドチャイ)を出しているけど、メニューに加えるかどうかは相当迷ったそうで。

その理由は、

「そりゃー出したら売れるけど、アイスチャイ頼むひとって、冷たいもん口に入れたいだけやん。そしたらチャイじゃなくてもいい」

から。

元々チャイは熱い飲み物で、めちゃくちゃ暑いインドでも、みんな熱々のチャイを飲んでいる。夏場はどうしても冷たいものが飲みたくなるけど、アイスチャイはある意味「邪道」なわけですね。「アイス出したら、アイスしか売れへんようになる」とも言っておられました。

しかし結局は「悪魔と契約して」アイスチャイも出すことに。でも、アイスチャイを出して「冷たいのはサッパリしてますね、とか言われたら腹たつからなー」とも! だからアイスを出す際も「ウチにしか出せない、冷たくてもドロッドロの、あまーいチャイ」にしている。氷もチャイで作っていて、薄くならないような仕掛けに。


……このエピソードやっぱり書いたらよかったかな! と思ってしまうけど、上手く書けなかったのは技量の足りんところだ。今後精進いたします。


Watte chaiさん、メチャおすすめのお店です。宇治の店舗はもちろん、イベント出店を追いかけても楽しいと思います。ぜひお立ち寄りください!

なにで食ってるかわからない人

音沙汰とアジアの星くずたち、というユニットのライブを千本北大路で見た。

かなり小さい会場で開演ギリギリに行ったけど、意外と最前列の席が空いている。空いたままにしてたら寂しい感じがしそうだったので座った。そしたら演者との距離がメチャ近く、客としてはかなりのレベルで緊張した。

自分がライブをするときにも、たまーーにお客さんが近すぎてどこを見たらいいのかわからないことがあるけど、お客としても近すぎると、どこに視線をやったらいいのかわからなくなるもんですね。


それで、客として緊張するってどういうことだろう、と思って考えてみると、それはある意味で自分がそのライブに影響を与えるからだ。客がつまらなそうにしていたら演者は不安になるし、逆に客がノリノリだと演者は安心して演奏できる。

つまりライブというのは少なからず演奏者と客のあいだで相互作用があるもので、お金払って見てんだぞと受け手に回るのはもったいない。いいライブを見ようと思ったら、お客としてもいい振る舞いをする必要がある……といったら言い過ぎかもしれないけど、とにかく演者をノセたほうがいいライブを見られる、いい空間を作ることに貢献できることは間違いない。過剰に盛り上げる必要はないけど、いいライブを見たほうがお得だとは思う。

もちろん、そんな空気を自然に作り出すのがスターであり、場を支配するのはプレイヤーの腕の見せ所ではある。けど、1万人入っているコンサートでも1万分の1の、100人しか入らないライブハウスでは100分の1の空気を作っていることは確かなのだ。

最近フジロックの配信が盛り上がっていたときにも思ったけど、配信だとその責任がなくて、つまらないと思う。せっかくライブ見るなら、影響を与えたいし与えられたいでしょう。



こんな理屈っぽいことは帰りのバスで考えていたことで、ライブはスカッとした演奏でめっちゃ元気でた。アンコールでSMAPの『俺たちに明日はある』をカバーしていて最高、真夏さんが「みんなも友達とカバーするといいよ」って言ってたのをちょっと本気にしている。

終演後にお客で来ていた人たちと話していると、今週アフリカから帰ってきたという人がいた。9ヶ月もアフリカにいたらしく、日本って、京都って最高!とずっと言っていてなんかよかった。

京都にいると、お仕事何してるんですかと聞かれたときに「適当にやってます」みたいな回答でも許されますよね、何で食ってるかわからない人いますよね、という話になって、非常に納得した。自分も最近は編集・ライターのアルバイト(在宅)とWebライターとバンドマンと、みたいな感じなので、お仕事何してるんですかと言われたら毎回どう答えるか迷っていた。これからは「適当にやってます」と言おう。


学生の頃は先輩バンドマンたちを見て、この人たちは何で食ってるんだろうと思っていた。今はたぶん、自分がそう思われている。

お前はお前の祭りをやれ

ネギクルーでフジロックのルーキーステージ(オーディション)に応募していたのだけど、残念ながら落選していた。
ので、なんやねんと文句をいいつつ、今日は鴨川に集まってみんなで歌ったりすることにしていた。

ワイワイやっているとギャラリーが集まってきたり、橋の上から拍手をもらったりして盛り上がりが生まれる。途中おじいさんがやってきて、ブラボー!アメイジング!とか言ってくれてるなと思っていたら、その後ひとりでオー・ソレ・ミオを歌いはじめてなかなかいい感じだった。スイカいりますかって言ったら最初は遠慮していたけど、その後しばらくしたら食べていた。子供が踊ってくれたり、酔っぱらいがそのへんで寝たりしていて、いいパーティーだった。

去年の今ごろは、フジロックに出演するミュージシャンがそれぞれ考えを表明したり(させられたり)、出演を見送ったりしていてかわいそうすぎだった。同時期にTOKYOニーゼロニーゼロやっていたりしたのにね。なんか全員が立場を明らかにしないといけない空気で大変だったよな。

それを思うと、今年はもう隔世の感がある。みんな自分の祭りをやろうや。


保坂和志『プレーンソング』

「その人にエサあげるの?」
と言ってきて、なんかその晩の島田は調子がよかった。
保坂和志『プレーンソング』(新潮文庫)P177

『ライティングの哲学』で触れられていたんだったか、千葉雅也が言及していたんだったか、とにかく少し前に『書きあぐねている人のための小説入門』を読んで、保坂和志えらい!!となっていた。

それで小説も読んでみるか、となっていたときに買った氏のデビュー作『プレーンソング』。気が向いて読んでみたらこれがめっちゃおもしろかった。

この小説はストーリーがないというか、なにか重大な事件が起きたり人間関係にイザコザが起こったりするわけではないんだけど、筆致が軽いというか、千葉雅也がいうところの「フリーライティング」に近いのではないかと思うところがある。

中盤まではフツーというか、特に盛り上がりもないような気がして読み進めていたところ、冒頭に引用したあたりから、急に文章が軽くなっていく雰囲気を感じる。物語は234ページで終わるので、引用部分の登場する177ページは終盤といってもいい頃だ。その前後から一気に読み味が軽くなるというか、ノリにノッて書いているのが伝わってくる。ノリにノッている文章を読むのは気持ちいい。ネタバレネタバレうるさい世の中であるが、映画音楽小説その他なんでも、ストーリーのプロットの別に、読んでいる(観ている・聴いている)あいだの心地よさをもっと重要視したほうがいいように思える。

他にも、主人公をはじめとする登場人物がノンキというか、まじめに会社に行かなかったりしているのもいい。なんか昼からのんびり出社していたり、喫茶店で話してから「やっぱり今日は会社いかないことにする」とか言っていて余裕を感じる。そもそも主人公の家に集まっている人たちはあんまり働いていなさそうな感じもするし。逆にいうと今のわれわれは仕事しすぎであることをもっと自覚する必要がある。会議してる場合ではなく、喫茶店で話したり、海に行ったりしたほうがいいし、猫に餌をやったりしたほうがいい。


なにを今さら保坂和志をレビューしているんだ、とお思いかもしれないけど、自分には新鮮な衝撃だった。村上春樹とか読んでる場合じゃなかった(ちょっと言い過ぎ)。

いま読んでいる『考える練習』も面白くて励まされる。テクノロジーに時間を奪われていることについて語るなかで「覚悟の決まった禅僧だって、街の中じゃ修行できないんだよ」って言ってる。その通りやわー。

インディーズ山鉾

祇園祭山鉾巡行に関するツイートとかを眺めていて、おれも自主制作のインディーズ山鉾を作ってそのへんを練り歩きたい!とか考えていたんだけど、本当はインディー鉾を作りたいのではなくて、京都のおじいちゃん連中に怒られてみたいっていう願望があるような気がしてきた。

実際の事例でいうと五山の送り火にまつわるイタズラの話とか、もうめちゃくちゃに好きなんだけど、ネイティブの京都人からすると冒涜以外のなにものでもないらしい。

そうやんな〜と思う一方で、いわゆるイケズ発言というか、そういうメッセージを受け取ったことがちょくちょくあるので、ネイティブに対してええかげんにせえよと思う気持ちが(ちょっとだけ)蓄積していて、いつか鼻を明かしてやりたいという気持ちがあるのかもしれない。自分が経験した京都のおじいさん話では、学生時代に住んでいた長屋を引き払うとき、立ち会いに来たおじいさんに就職先を聞かれて、奈良だと答えたところ「そんな素朴なところに行くんか〜」と言われたのが思い出深い。

念のために断っておくと自分はイケズ体験に対して本気でイヤだと思っているわけではなく、むしろ文化を経験できてラッキー!みたいな気持ちがあり、そういうもんだと思っている。しかし外からやってきた身としては、千年の都がなんじゃいという思いもあるので、送り火のイタズラとかを見ると痛快さを感じてしまうのかもしれない。京都にはそういう、ネイティブ対外様の構図がじんわり存在している気がする。


今年も宵山が終わったので、さすがにそろそろ梅雨明けだろう。早くカンカン照りの毎日になってほしい。


(一連のツリーも含めて大好きすぎるエピソード)

体調が悪くなる映画(『夜を走る』)

郊外のスクラップ工場で働くふたりの男。

ひとりは40 歳を過ぎて独身、不器用な性格が災いして嫌味な上司から目の敵にされている秋本。

ひとりは妻子との暮らしに飽き足らず、気ままに楽しみながら要領よく世の中を渡ってきた谷口。

退屈な、それでいて平穏な毎日を過ごしてきたふたり。しかし、ある夜の出来事をきっかけに、彼らの運命は大きく揺らぎ始める……。

使いものにならなくなった部品はいとも簡単に交換され、何事もなかったようにぐるぐる廻り続ける社会。悪が悪を生み、嘘に嘘が塗り重なり、弱いものたちがさらに弱いものを叩く。この無情の世界をどう生きていったらいいのだろうか─そんな答えなき問いに真正面から立ち向かい、偏在する矛盾と対立を丸ごと呑み込みながら、それでも尚、救済の可能性、解放への道標を、規格外のスケールで探し求める映画が誕生した。

速度と興奮に満ちたサスペンス、一寸先は予想もつかぬ怒涛の展開、そのあいまに漲る切々たるリリシズムと無骨なユーモア─目眩にも似た驚きを与えながら、観る者を異次元の地平へと連れ去る恐るべき怪物的映画、それがこの『夜を走る』である。
映画『夜を走る』公式サイト


映画『夜を走る』。これはヤバい!という評判を目にしたので出町座で見たら、たしかにヤバかった。

サスペンスというか、なんか悪いことが起こりそうだな〜という緊張感を常に感じながら、実際にストーリーが進んでいくと、思ってるのと若干ちがう、斜め上の最悪のことが起こる。上映時間125分ずっとそんな調子なので大変疲れた。帰ってきてメシ食って風呂に入った今でも胃がキリキリ痛い。

みんな明確な悪モノじゃないのに、「コストは大きいが今やるべきこと」を後回しにし続けた結果、どんどんメチャクチャになっていく。奇しくも今の世の中と符号するような展開もあって、暗い気持ちになった。人間や社会に対する信用が下ったし、帰りの夜道でもなんか悪いことが起きそうで怖かった。


暗い気持ちにはなったけど、だから嫌な映画かというとそうでもない。上映中はスクリーンにのめり込んでしまったし、このあとどうなるの??の連続で、映画の視聴体験としては大変おもしろかった。体調が悪くなるほど没入してしまうって、いい映画じゃないとできないことだ。怪作です。

すべての表現は自己紹介(『映像研』7巻)

ワシは人づきあいが苦手だったせいか、自分の作品を誰かが見て楽しんだりしている実感がないまま生きてきたのだ。

でも『時計塔』や『たぬきのエルドラド』でなんとなく、誰かが見ているのかなという気がした。

ワシは人と話すのは苦手だけど、ワシのアニメを見た人達が何を感じているか知ることができれば、人間のことが知れるかもしれないと思っているのだ。

(『映像研には手を出すな!』7巻より)


『映像研』の新刊、浅草氏のセリフがかっこよかった。自分もWeb記事の感想をもらったりすると、こういう気持ちになることがある気がする。

音楽でもテキストでも、なにかを作ろうとするのってメチャ大変だ(先日の記事にも書いた)。だから立ち止まってモチベーションを確認したくなるようなこともある。

そんなときによく思うのは、わたしはずっと自己紹介をしているのではないか、ということだ。こうしてブログをポチポチ書いているのも、自分が何を良しとして、なにを悪しきと捉えているのかを表明したいからで、それで誰かにちょっとわかってもらえたらいい。文章を読めば、その人がどんな人なのかよくわかるし、一緒にギターを弾いても同じ。

べつにそんな面倒な方法を取らなくても、と思われてしまいそうだけど、ワシは人と話すのは苦手だし、ワシのテキストやギターを見た人達が何を感じているか知ることができれば、人間のことが知れるかもしれないと思っているのだ。