書き言葉のなかに、関西弁はない。
たとえばライティングについて語るときに、「音声入力が早くて便利!」とか言われることがあって、これを見るたびに、関西弁ネイティブの自分にはできへんことやなあと思う。それは書き言葉と話し言葉の距離が標準語圏の人よりも(たぶん)遠いからで、キーボードに向かってるときと、喋ってるときでは、使ってるアタマのOSが全然違うような気がする。
クチから「書き言葉」を出すことは難しい。くちびるに馴染んでなくて、やろうとしてもエラーが起きやすくなる。
そもそも、関西弁を文章で表現することは難しい。
非関西弁話者の書く関西弁文は、関西弁話者が読めばほとんど一発でわかる。
たとえば格助詞の「を」の省略が再現されていなかったりすると違和感があるのだ(「手を出してみて」は、多くの場合「手ェ出してみて」となったり)。
また、逆に「に」は省略されると変に感じたりする(「飲みいこ」「遊びいこ」、関西では絶対「に」が省略されない。逆に省略するのは関東の表現なんだろうか。昔『モテキ』を読んだときに出てきて、しばらく誤植だと思っていた)。
もちろん例外はあるとしても、そういう部分が気になってしまう。
一方で、関西弁話者が関西弁をうまく活字に起こせるかというと、そうでもないような気はする。それはやはり、書き言葉と話し言葉が乖離しているからだろうし、そもそもイントネーションを活字に閉じ込めることができないからだ。
そんななかで、この関西弁は自然やなーーと感じたのが漫画『ファブル』だ。
alu.jp
『ファブル』の関西弁の自然さは、語尾表現の豊かさにある。引用した2コマのなかだけでも、「〜〜」「ーー」「♡」「ッ!」「!!」が、それぞれカジュアル関西弁のニュアンスを伝えてくれている。伸びた語尾のなかにイントネーションが生きていて、それがセリフの他の箇所にまで抑揚を与えている。
もちろん、実際の会話ではこんなに語尾をビヨンビヨン伸ばすことはないけど、それに近いニュアンスはあるだろう。特に子供の話し方に近いかもしれない。「お母さん、醤油取ってェー」、みたいな。
また、『ファブル』では、殺し屋である主人公が「人格のスイッチをいれる」瞬間が描写されている。
alu.jpここまで意識的ではないにしても、自分も書くとき・話すときで同じように人格のスイッチを切り替えているような気がする。
上述した「OSが違う」感覚だ。
少し前に「頭のなかの音声」の記事を書いてから、文章を読むときに頭のなかで音声が流れているか、興味が再燃している。同じように文章を受け取っているようで、実はそれぞれの頭のなかで全く違う処理をしている、というのが不思議でしょうがない。
文章を読むとき、頭のなかで
— まこまこまこっちゃん (@mak_1410) 2021年9月29日
その後も会う人会う人に質問していると、読むとき以外に、文章を書くときにも音声が流れる人・流れない人がいることがわかった。自分は読むときにも書くときにも無音で、イメージだけがあるような感覚だから、これもけっこう驚いた。
では、関西弁話者が文章を書くときに頭のなかで流れる声、その声は関西弁のイントネーションなのだろうか。それとも、書き言葉(≒標準語?)のアクセントが流れるのだろうか。また、その声の主と、関西弁話者である自らのペルソナは一致しているのだろうか。
数年前から聴いているポッドキャスト『POPLIFE: The Podcast』の最新回。
関西弁を話すSeihoにつられて、普段は標準語の田中宗一郎が、急に関西弁で話しはじめるシーンがあった。
以前から三原勇希(東大阪市出身)が関西弁になることはあって、その関西弁が出るエピソードは、どれも聴いていて面白いと感じる回だった。
それは、大人になってから身に着けた標準語から離れた、より素に近い存在として感じられるからで、その状態にたどり着くくらいトークの内容が深まっているからだ。
それ以上に「タナソーの関西弁」からは、これまでの200エピソード(×各1時間、200時間!)のトーク中に現れなかった田中宗一郎の、なにか外皮を一枚剥がしたような一面が感じられて、聴いていてめちゃくちゃ興奮した。200回分のエピソードがフリになって、EDMのDrop(いわゆるサビみたいなところですね)みたいにアガってしまう。*1
自分の「アタマのOS」が複数あるとして、そのなかで最も素の自分に近いものを選ぶとすれば、それは関西弁で話しているときの自分であるように思う。
だとしたら、こうしてキーボードから書き言葉を綴るときの自分はなんなのか。
最近はそんなことを考えています。特にオチはありません!
*1:内容もめちゃくちゃよくて、Seihoの「評論が不足している」という話にめっちゃ共感した。みんなで聴こう!