(この記事は モーリ id:mohri さんのアドベントカレンダー「文を紡ぎ編む人たちの Advent Calendar 2022」24日目の記事です!)
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2022年の個人トピックとして、デイリーポータルZのレギュラーライターとして記事を書くようになった、というのがある。今年はみじかい記事も含めて9本を書いた。もうちょっと書いたほうがいいかも、とも思うけど、自分の実力的にはそんなもんかもしれない。頑張りました。
とにかく、それでよく考えるようになったのは、ライターってどういう仕事なんだろう、ということだ。ライターと呼ばれている人はたくさんいるけど、それがなんなのかについては、ぼんやりとしか捉えられていないような気がする。
ライターとは取材者である
自分でもいろいろ考えていたのだけど、最近読んだ本『取材・執筆・推敲 書く人の教科書』*1に書いてあった定義がけっこうしっくりきて、それは「ライターとは、取材者である」ということだった。*2
われわれはすぐ字義から解釈しようとしてしまうので、ライターっていうくらいだから、Writeしてる人なんだろう、なんか書いている人なのかな〜〜とか思ってしまう。実際そうなんだけど、ライターがやっている仕事をひとつずつ見ていくと、いちばん大事な部分って取材だ。言われてみればたしかに、取材をしないライターはいない。いなさそう。いるとしても別の名前がついていそう。
取材の対象には、自分も含まれる
「取材」っていうと、誰かに話を聞くような仕事を思い浮かべてしまうけど、実際はそれだけじゃない。たとえば、今年自分がデイリーで書いた記事でいうと、誰かにインタビューした記事って1つ*3 しかない。
あとは自分の話ばっかりしている。自分の話ばっかりですみません、という気もするけど、これはこれでライターとしての仕事を遂行できているはずだ。つまりどういうことかというと、取材の対象って他人だけじゃなくて、自分も含まれるのだ。モンゴルに行って草原からリモートワークをしてみる*4とか、ちっちゃい古墳を見てみる*5とか、そういうのも取材。鴨川で足湯する*6のも取材!
自分の生活も含めて取材の対象となっているし、毎日頭のどこかには「これってネタになるかな」みたいな気持ちがある。つまり、毎日なにもかもが取材だ。大変かも!
能動的な姿勢
『取材・執筆・推敲』には、取材者は、物事を能動的に受け取る姿勢が大事だよっていうことも書いてある。
たとえば、そば屋でそばを待つあいだは「そば屋の待ち時間にしかできない取材」を考えろ、と言っている。スマホいじってる場合じゃねえぞ、とも。すみません。テーブルの七味唐辛子を観察して、そういえば七味ってなんだろう…と考えるのがライターのあるべき姿らしい。成分表示に載ってる陳皮って、みかんの皮なんだ、へー、ってなろう。
……ちょっと大変すぎないか、と思わなくもないけど、近いことを考えているときはある。この変な居酒屋の店主に話を聞くとしたらどういう質問だろうとか、方言で書かれた看板、写真を集めたら記事になるかな〜、とか。毎日が取材、みたいな気分は正解だったのか。
自分が興奮するかどうか
そういう毎日を過ごすのって、ふつうに生活している自分とは別に、取材者の目線で生きるもうひとりの自分をもつ、みたいなことでもあるかもしれない。これって、うっかりすると何にでもメタ視点を持ってしまって、毎日が仕事気分でつらい! みたいな気分にもつながりかねないような気もする。
でも、自分の場合はそうならなかった。というのも、デイリーが「自分が興奮することを書く」を方針としているからだ。
この方針はけっこうありがたい。記事を書きやすいとかそういう面もあるけど、なにより、生活のなかで「自分が興奮できるかどうか」に敏感になれている気がするから。
たとえば、花見のときに釜飯を炊くと楽しいぞ、っていう記事*7 でいうと、普通だったら、温かいものが必要なんだったらコンビニでなんか買えばいいのでは、と判断されそうなところだけど、それでは自分は興奮しないよな〜と思っていたことに気づいて、釜飯を炊いた。いま思えば鍋とかでもよかったような気もするけど、そのときは羽釜で炊飯することに大興奮していたのだと思う。
新しい自分がみつかる
そういう興奮ポイントを見つけていくのは楽しい。記事未満のことでも、突然ランニングを始めてみたらふくらはぎに筋肉がついてきてウケるとか、家が寒すぎるから山用の寝袋で寝てみたら快適でしかも極地登山家みたいな気分だった、とか、ちょっとした興奮を拾えるようになった気がして楽しい。自分の興奮って、注意してないと見逃してしまうものなんですね。
だから、もしもデイリーと逆の「PVが稼げるネタを書く」が方針のメディアで書いていて、自分が興味をもてないことに無理やりキャッチアップしないといけない日々だったら、けっこうつらくなっていただろうと思う。生活を一人称で楽しめなくて、損した気分になっていたかもしれない。日経新聞の記者の人とかってそういう気分になっていないですか大丈夫ですか(すみません)。いや、デイリーでもPVは求められているのかもしれないけど、少なくともそれより上位の方針として「自分が興奮するネタを書く」があるのはありがたい。
ブログも同じ
今年でいうと、このブログもけっこう更新した。こっちはこっちで、デイリーで書くのとはちがうエリアの興奮があったときに書きたくなっている気がする。
それでブログも自分の話ばっかりする場になっているけど、結局これも、ちょっとした自分への取材なのかもしれない。日記を書くとかも含めて、そういう習慣があると、だんだん自分のことがわかるようになってくる。
まとまった文章を書くって、けっこう気合が必要なことだと思うけど、そういう効能もあって悪くない。村上春樹も「書くことで癒やされる」って言っていたけど、僭越ながら遠くないことを感じているんじゃないか。僭越すぎるかな。
誰かの生活がちょっとよくなるといい
なんかこの記事だけ読むと、自分が気持ち良くなるために記事書いてるのか! と思われるかもしれない。もちろんそれもあるけど、わたしは自分を取材して記事を書くことで、誰かの生活がちょっとよくなるといいな、と思って書いてます。本当です。よくなってますか。よくなってください。
文章っていうのは、視線の共有でもある。人って同じものを見ていても、フォーカスする部分はぜんぜんちがうし、文章にはフォーカスした部分しか書けないからだ。だから記事やブログでは、わたしが見たもののなかで、これおもしろいからみんなも見たほうがいいよ、と思ったものをシェアしているつもり。
こんなこと言うのって野暮ですか! でも、ライターが取材者なんだとしたら、それによって何かがちょっとよくなるといいと思っているのは本当です。
ということで来年も、よい取材を行っていきたいです。自分に対しても誰かに対しても! みんなもがんばろう!
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*2:ちなみに「プロのライター」の条件としては、編集者が存在していることをあげていた。たしかに明快でなるほどってかんじですね。