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踊る!ディスコ室町のギター

日本社会のしくみ(小熊英二)

 

先月くらいからちょこちょこ読んでいたが、この連休でやっと読み終わった。

他の新書の3倍くらい文量があるのに加えて内容も濃いので、毎回読む前に「今から読むぞ…読むぞ…」と勢いをつけながら読む必要がある。

パンデミックで急速に社会が変化していく最中、改めて働き方について考えていたタイミングでもあり、かなり激しい読書体験だった。

 

 

 

「雇用・教育・福祉の歴史社会学」と副題が付けられているが、軸となっているのは”日本型雇用”の成立とその背景。冒頭から主張されるのは、日本型雇用の”典型”が実は少数者のものであるということだ。

例えば社会人という言葉を持ち出すとき、そのイメージは「企業の正社員となり定年まで勤め上げる」といったものであるが、実際にそのような人生を送っている人は日本人の約3割にすぎない。”昭和の時代”でも、そのような生き方をしたのは男性の34%であったという。年功序列や終身雇用の終焉についての議論が白熱する以前から、そのようなメリットを享受できたのは社会のごく一部だった。

 

では、最近になって指摘されている社会の変化はどこに起こっているのか。筆者は、社会の構成を「大企業型」「地元型」「残余型」の3つに分類して読み解いている。「大企業型」は大企業で正社員・終身雇用の人生を過ごす人たちとその家族、「地元型」は地元で農業・自営業・地方公務員・地場産業などに従事する者、そしてそれ以外の「残余型」だ。都市部の非正規労働者に代表される残余型は、”大企業型と地元型のマイナス面を集めたような類型”。所得は低く、持ち家もなく、年金も少ない。筆者によると、この「残余型」が増加傾向にあるという。自営の商店や食堂が減り、スーパーやチェーン店での非正規労働者が増えたのだ。

 

ここ最近の新型コロナ流行による混乱のなかで、日本政府は「東証1部に上場している大企業」だけを救済しようとしている(以前からのETF購入拡大やCP・社債の無制限買い入れ)。一方で、営業の自粛等で窮地に追い込まれている中小企業や自営業者はほとんど無視されているといってもよいほどで、今後はさらに「残余型」の増加が加速していくだろう。

 

 

他に紹介されている日本社会の傾向として、大学院進学率の低さが挙げられている。日本は他国に比べて相対的に「低学歴化」しているという。

職務によって給与が変わる欧米では、より高い給与を得ようと思えば学位(資格)が必要になる。一方で日本では、職務よりも「社内での頑張り」みたいなものが評価される仕組みになっていることが多く、院進に対するインセンティブが働かない。

パソコンを使えなくてもサイバーセキュリティ担当大臣になれたり、専門家に意見を聞かないまま総理大臣が学校休校を決定したりする(そしてそれらが許されている)ような、社会全体に専門性への軽視ともいえる態度がある。

 

社会全体が”カイシャ”と”ムラ”に依存しているような形になり、それ以外の教育や職業訓練が疎かになっている。教育された人や職業訓練を受けた人を採用するのではなく、青田買いした若者を自社に順応できるような形に育てていく。

 

 

 

様々なデータが紹介されているが、地味にショックを受けたのは日本において所得上位10%の年収が580万円というものだ。無所得者も含む成人のなかでの数字であるが、給与所得者(つまり会社員)に限っても年収600万円を上回るのは18%だけだ。 差し引かれる税金や社会保険料も考えると、「奥さんと子供2人を自分の給料だけで養う」みたいな人生がいかにハードルが高いことかを思い知らされる。僕自身も、どこかでそれが普通みたいに思っている節があったが、昔からそんなことはなかったと知れてよかった。

会社で頑張っても到達できるのがそのレベルなら、別の働き方を…と考えたいところだが、やっぱり最近のニュースを見ていると自営業・小商いに対する支援やセーフティーネットは小さすぎるように思う。制度以外にも、営業中の店舗を非難するようなコメントをみていると社会の空気としても”カイシャ”・”ムラ”以外の人間に対する目は冷たすぎる。

もっと小さい単位や、競争のない働き方を選べるようになった方がいいと思うし、それができないのは息苦しい。

でもなんとなく、そうはなっていかなそうな雰囲気を感じてしまってしんどい日々だ。