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踊る!ディスコ室町のギター

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて(熊代亨)

 

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて

  • 作者:熊代 亨
  • 発売日: 2020/06/17
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

 

本書では、高度な秩序が行き届いて”清潔になった”街として東京が語られているが、この話題から僕が連想するのは大阪・天王寺の街だ。

現在は再開発により、あべのハルカスやキューズモールが象徴するような”キレイな”街並みが整備されている。が、天王寺エリアがあんなにピカピカになったのはつい最近のことである。

 

・・・・・・・

 

今年の2月、はてなにこのブログを開設してみて、意識的に他の人のブログをチェックする習慣がついた。

”シロクマ先生”のブログも、そのときに読み始めたもののひとつだ。YouTuberの軽躁やイライラした人の居場所についてのエントリーには、僕なりに影響を受けた。

p-shirokuma.hatenadiary.com

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

 

 

そんなシロクマ先生の新著が「健康的で清潔で、道徳的な秩序ある社会の不自由さについて」。ブログで公開されてた第一章を読めば、これは今読むべきものだ、と直感するのに十分だった。

p-shirokuma.hatenadiary.com

 

本書は、帯文にもあるようにメンタルヘルス・健康・少子化・清潔・空間設計・コミュニケーションを軸に、令和時代の「生きづらさ」を読み解く。

第一章「快適な社会の新たな不自由」では、秩序が行き届いた”美しい都市”において、その秩序から漏れてしまう人々の居場所のなさが指摘されている。

代表事例として挙げられているのは東京の街だが、僕が思い出すのは大阪・天王寺の街だ。

 

 

子供のころ(約20年前だ)、父母に手を引かれて行った天王寺動物園の周りには青空カラオケ*1の屋台が立ち並んでいた。そこから聞こえてくる法外な爆音には、子供ながらに迫力を感じ取っていたものだった。

カラオケ屋台以外にも、ガード下にはブルーシートで道路を占拠するホームレスのおじさんが何人もいた。そういう場所は母親の手をギュッと握りながら通った記憶がある。

 

この時点では、”そういう場所”に行けば、”そういう人”がいるのは当たり前のことだったのだ。梅田や心斎橋では異質に見られそうな彼らも、あの街の中では当然のように存在していた。

 

しかし高校生の頃、キューズモールがオープンしたあたり(2011年)にはすでに、天王寺は目に見えて綺麗になっていた。ハルカスができたり、「てんしば」が整備されたりして、かつてのカオスが嘘のような場所だ。 

 

 

今でもたまに動物園や新世界に立ち寄るたび、あのブルーシートのおじさんたちのことをふと思い出す。

彼らはどこに行ってしまったのだろうか。本書で指摘されているように、福祉が行き届いた効果も大きいのだろう。でも、そればかりでないように思わずにいられない。 

 

もちろん、ブルーシートのテントに暮らす人がたくさんいたり、カラオケ屋台が林立している街が無条件に良いとは思わない。ただ、”秩序ある空間”が広がったことによって、そこに居られなくなってしまった人たちがいることは確かだ。

 

そして、天王寺が再開発によってカオスを排除していった時期と、大阪でオリンピック誘致の運動*2が行われていた時期が重なるのは、偶然ではないだろう。

これと同じことが、より大規模に東京・そして日本中で起こっていると思いながら本書を読むと、やっぱりしんどいものがある。

 

大阪は幻のオリンピックのために漂白されてしまった。そして今度は東京のオリンピックも幻になりそうで、なにやら皮肉なものだ。

  

・・・・・・・

 

シロクマ先生、本文中で資本主義の親玉としてGoogleFacebookリクルートを並べていたりと、さすが鋭いなと思わされる部分が多かった。

過去の著書も注文したので、引き続き拝読します。

 

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

「若作りうつ」社会 (講談社現代新書)

 

 

 

 

 

*1:ブルーシートで作られた露店。もちろん防音などという概念はなく、おじさんやおばさんの歌声が街じゅうに響き渡っていた。懐かしくて検索してみると、2003年に強制撤去されたらしい。

 

 

青空カラオケ強制撤去顛末記(人民新聞社)

 

検索トップに出てきたオノマトペ大臣の記事もおもしろかった。

kansaisocal.org

*2:Wikipediaを確認すると、かなり情けない顛末だ

ja.wikipedia.org

いま、将棋がおもしろい

タイトルは嘘で、将棋自体は1000年前から人気のあるボードゲームだ。

藤井聡太七段の活躍による盛り上がり*1に合わせて、僕もにわかに盛り上がっているという話をさせてください。

 

 

たまたま読んだ将棋のニュース記事が面白くて、将棋自体に興味が湧いた。最近よく見る松本博文さんという方の記事、文章がおもしろいのだ。

「藤井七段はすっと香を走ります。王手。その香は、将棋界を駆け上がっていく藤井七段の姿のようでもあります。」

こんなに文化的な輝きのある比喩があるだろうか。しびれる。

 

藤井聡太そんなに強いのかよ、と思って在宅勤務の合間や会社帰りの電車でAbemaTVの中継を見てみると、これがまた面白い。

テレビをザッピングしているときに目にする将棋中継にはおもしろさを見出せずにいたが、アベマの中継ではソフト解析による形勢判断や最善手が表示されている。素人にも楽しめるような演出が凝らされているのだ。

 

劣勢だった藤井七段が起死回生の一手を打つ瞬間なんかは解説陣やコメント欄の盛り上がりを楽しめるし、終盤戦で相手玉を追い込んでいく際には、ソフトが示す最善手を指し続ける精緻な頭脳に(ど素人の僕でさえ)感嘆できる。

 

 

そんなわけですっかり将棋にハマってからは、自分でも指してみたいと思うまでに時間はかからなかった。

早速ネット通販で将棋盤と駒を購入して、本屋へ行き入門書を2冊買った。

 

将棋盤(並寸)

将棋盤(並寸)

  • メディア: おもちゃ&ホビー
 
任天堂 将棋駒 優良押

任天堂 将棋駒 優良押

  • メディア: おもちゃ&ホビー
 

 

入門書の説明文を読みながら自分で駒を動かしてみると、一手一手の狙いや仕掛けがわかるような気がしてめっちゃ楽しい。

実は何年か前にも一度勉強しようと思ったことがあったが、そのときは盤と駒を買わなかったのでイマイチ理解が追いつかないまま飽きてしまったのだった。

 

最近はYouTubeでプロ棋士が初心者講座を公開していたりして、それも理解の助けになっている。

山口恵梨子女流の講座シリーズが始めたばかりの初心者向けに作られていて、めちゃくちゃ参考になる。

 

初心者向けの作戦と言われている原始棒銀四間飛車を覚えてみると、基本的な攻め方や考え方がわかった(ような気がする)。

Wikipediaで戦法の名前を眺めるだけでもおもしろい。なんなんだゴキゲン中飛車って。藤井システムもかっこいいな…

ja.wikipedia.org

 

 

 

1週間ほど勉強してみると、将棋ウォーズ(将棋連盟公認のスマートフォンアプリ)のオンライン対戦でもちょこちょこ勝てるようになってきた。たまに現れる、明らかに適当に指してくるような相手には、ほぼ確実に勝てるくらいの実力だ。

 

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1週間ほどで、10分切れ負け*2では30級→26級に昇級した。

とりあえず年末くらいまで勉強して、5級まで昇級する(将棋連盟に級位の証明書を請求できるのが5級からだそうだ)のを目標にがんばろうと思った。

またすぐ飽きてしまいそうな気もするので、決意も込めてブログ更新。 

 

 

将棋、じっくり見てみるとめっちゃ面白いのでこれ読んだ人は一度AbemaTVの中継をご覧になってみてください。

 

 

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美濃囲いの崩し方を勉強している図、です



*1:先週19日に史上最年少でタイトルを獲得して新棋聖となった。めでたい!

*2:持ち時間10分ずつの対戦

いますぐ書け、の文章法(堀井憲一郎)

 

いますぐ書け、の文章法 (ちくま新書)

いますぐ書け、の文章法 (ちくま新書)

 

  

2020年に入ってから気まぐれに書き始めたこのブログだが、コロナ禍のステイホームも相まって、今ではわりと生活の中心に近い部分を占めるようになった。

以前にも発作的にnoteやTumblrに叩きつけた文章があったが、それを除けば、まとまった文章をこれだけ書き続けるのは初めてのことである。

 

そうして書いているうちに気がついたが、僕は文章を書くことがけっこう好きだ。

自分の文章が上手か下手かの審査は読者に任せるとして、自分ではけっこう気に入ってしまっている。

書いていると、脳みそのメモリーが140字から2000字に拡張されたような気さえするのだ。

 

・・・・・・・

 

いきなり自分語りから始めてしまって恥ずかしい。とにかく最近、文章を書くこと自体に興味が湧いているということが言いたかった。

それで、本書を手にとったのだ。

 

 

1ページ目から何度も繰り返されるのは、「ちゃんと書こうとするな」ということ。

美しく正しい日本語で書かれたどうでもいい内容のものよりも、少々乱暴でも、躍動して人を巻き込んでいく文章のほうが、雑誌には向いている。

たしかにそうだ。 

たとえば本書の文体は「だ・である」と「です・ます」が混在している。作文の授業で習ったかぎりでいうと、「美しく正しい日本語」ではないかもしれない。

しかし、丁寧に「〜です。」とか言ったかと思えば次の文でいきなり命令形が飛んでくるような文章には、緩急が生まれている。一冊を通じて、不思議なスピード感に支配されるのだ。

これが”躍動して人を巻き込んでいく文章”か!と目をひらいた。

 

また、一貫して書かれているのは「読者のことを第一に考えて書け」ということ。そこがプロとアマを分ける大きな違いだという。 

文章を書くことは、サービスである。

読む人のことを考え、ゆきとどいたサービスを届けないといけない。 

例にもれず、自分が思ったことを自由に書くのが良い、と思っていた。目が覚めるような思いだ。

 

さらに読んでいて頭が痛いのは、「時間軸の誘惑」と銘打たれた節。

なぜその国を訪れることになったのか、訪れる前におもっていたイメージとその準備から書かれている文章は、きわめて退屈である。 

あなたが、自分の旅のことを書こうとするとき「準備から描写して、起こった順」に書いていきたいとおもっていませんか。おもってますよね。(中略)でも、それは、「読者の都合をまったく無視した書き方」です。そこには読み手の視点がない。書き手の都合しかない。

 

読み手の立場からすれば、面白いところだけ(または、面白いところから)読ませろ、ということだ。苦労したことがあっても、その部分を文章にしたときに魅力がなければカットする。単純だが、なかなか難しい。

5月に書いたモンゴル武者修行ツアーの記録(全4回)なんかは、まさにこの典型だ。準備から始まって、起こったことだけをだらだらと羅列している。あまりに指摘された通りなので笑ってしまった。 

 

 

軽い気持ちで読んだが、めっちゃ参考になったし、なんだか喝をいれられたような気持ちだ。「生きている文章」という言葉にしびれた。

生きている状態で生きている文章を書け。いま書きなさい。 

 

 

とにかく、ちょっと文章書いてみよう、と思っている人は読んで損はない一冊だし、読み物としてもめっちゃおもしろい。文章法の指南の体裁になっているが、ライター・堀井氏のエッセイとしても楽しく読める。

 

・・・・・・・

 

文章を書くことはけっこう楽しいことだ。みんなもっとブログとか書けばいいのに、と思っている。140字の激流から、一歩離れられる。

 

もしこのブログを読んでくれている友人がいれば、ぜひこの一冊を読みながらはてなブログを開設してください。いますぐに! 

 

 

 

釣りってつまり、答え合わせですよね

 

世の中には突然釣りにハマってしまう人というのがいて、最近僕のタイムラインにもそういう人が現れた。

元コミックナタリー編集長で、現在はアメリカ在住ミュージシャンの唐木元さんだ。今月に入ったくらいから突然、釣りに関するポストが増えた。

以前も「ハーレムのバス釣り」と題された文章を書いておられた(この文章もめっちゃ面白い…)けど、どうやらこの頃は本当にニューヨークで釣りをしているらしい。

 

note.com

 

noteの投稿を開いてみると、共通点を感じてしまうことがめちゃくちゃある。

まさに僕も中学3年の受験シーズンまで釣り好きの子供だったし、最近10年ぶりくらいに釣りを始めたらPEライン*1の台頭に驚いた(もちろん結び方にも苦労した)。ルアーやりたい!と思ったら周りの釣り人たちから「エサじゃないと釣れへんで!」とか言われたのも同じだ。これ本当にどこでも言われる。

釣り場の写真もどことなく、僕が自転車でせっせと通っていた大阪湾の運河の風景と似ている。ちなみにイーストリバーの魚は食べない方がいいと保健局が発表しているそうだけど、運河で釣ったシーバスは普通にじいちゃんが塩焼きにして食べてたな…。

 

 

そんなわけで、すっかり夢中になってツイッターやnoteにポストされるニューヨークの釣りレポートを読みあさっているが、特にめちゃくちゃ頷いたのはnoteへの最初の投稿の結びの文章。

俄然やる気が湧いてきた。まずはリサーチからだ。おれはリサーチが好きなのだ。正直本番より好きなのだ。本番ってあれほら、作業じゃん。

 

そうそう、趣味で一番楽しいのって、準備している時間なのだ。

 

釣りの場合なら、狙うサカナが何を食べているか、表層にいるのか海底にいるのか、当日の潮はどんな流れか、天気は、気温は、水温は…と膨大な情報を集めている時間が至福の時間。

そういった情報の中から自分なりに仮説を立てるのが楽しくて、本番はそれを証明するための作業なのだ。

 

思えば釣り以外のいわゆる”オヤジ趣味”、たとえば競馬とかも同じような答え合わせの快感があるためにハマってしまうような気がする。とにかく自分が立てた仮説を証明して、「ほら、言うた通りやろが!」とか言いたいのだ。

野球を見ているオッサンとかもよくこういうことを言っている(ほら、ここで藤川出したら打たれるって言うたがな!)。スポーツ新聞に書いてあることは、だいたいこういう台詞のための情報だといっても過言ではない。

 

 

そんなことを考えながら、毎日ニューヨークの釣り事情についての投稿を見ていると、ついにその瞬間はやってきた。

 

 

ツイートを見た瞬間、声がでた。釣ってるやん…!。人ごとながら、最近で一番ブチあがった瞬間だ。

そして不思議なもので、1匹目を釣り上げてからはその後も連続で魚をゲットしているようだ。

 

いやあ良いなあ。おれも今すぐ海に行きたい!

 

 

 

 

先週はこういう流れで釣り熱が高まっていたところ、週末は釣りに誘われた。

まさに渡りに船!!と思って二つ返事で約束を取り決めて喜び勇んで出かけたが、ちょっと誤算があった。

 

船釣りだったのだ。

 

船に乗ったのは初めてだったんだけど、僕はめちゃくちゃ船に酔いやすいタチだったらしい。乗船してから最後まで、ほとんどずっとグロッキー。合計5回ほど、胃の内容物を海へ放流した。

 

こんなに揺れるものなんですね。

そのへんはちょっとリサーチ不足だったかなあ。

 

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顔色悪い記念写真。これの前に3回吐いて、このあと2回吐いた。



 

 

*1:ポリエチレン製の撚り糸

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬(若林正恭)

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬

表参道のセレブ犬とカバーニャ要塞の野良犬

  • 作者:若林 正恭
  • 発売日: 2017/07/14
  • メディア: 単行本
 

 

 僕は結構熱心なリトルトゥース*1で、若林が書いたエッセイも2冊読んでいたが、キューバ旅行について書かれた本書はなんとなく後回しになっていた。

しかし読んでみると、これまで読んだ2冊に比べても一番好きな1冊だ。

 

 

全編に渡って記されているのは、東京やニューヨークで常にリフレインする「やりがいのある仕事をして、手に入れたお金で人生を楽しみましょう!」という言葉から離れることの喜びだ。 

「社会人大学人見知り学部 卒業見込」「ナナメの夕暮れ」でも語られている新自由主義への違和感が、社会主義国であるキューバとの対比でより明確になっている。

  

そしてこの一冊が他の芸人本や旅行エッセイと一線を画しているのは、最終章で突然はじまる家族の話。それまでと違ったトーンのなかで、キューバという目的地を選んだ理由が明かされる。

これはラジオでも語られていなかった理由だ。出版当時、冗談めいた口調で「あまり知られたくないんだけど」「イジられたくない」と言っていたけど、こういうパーソナルな部分への言及があったからなのか。

 

そして若林がキューバで気づいたことは、コロナ禍で何でもリモートになってしまうこの時代に読むとハッとさせられることだった。

本心は液晶パネルの中の言葉や文字には表れない。

アメフトの話や、声や顔に宿る。

だから、人は会って話した方が絶対にいいんだ。

 

 

綴られているキューバの風景や雰囲気からは、去年行ったモンゴルを思い出す。新自由主義から遠く、広告が少なくて、仕事以外の親切を感じる国。そういえば、若林はモンゴルでも一人旅をしていた。

自分がモンゴルで良いなと思ったのも、まさしくそういった部分だ。キューバもきっと最高なのだろう。おれもビーチでシガーをくわえながら、モヒートを飲んで陽気に踊ってみたい。

 

 

 

 

 

完全版 社会人大学人見知り学部 卒業見込 (角川文庫)
 
ナナメの夕暮れ (文春e-book)

ナナメの夕暮れ (文春e-book)

 

 

*1:ラジオ「オードリーのオールナイトニッポン」を聴いているファン

河原町のシュプレヒコール(Black Lives Matter 京都)

◯6月21日

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初めてデモに参加した。

たまたま連絡した先輩がBLM(Black Lives Matter)のデモに行くというので、ついていったのだ。

円山公園を出発して、京都市役所前まで行進するのだという。

 

・・・・・・・

 

このところアメリカを中心に激しさを増している人種差別に対する抗議活動の様子は、京都でぼんやりしている僕のSNSにも届いていた。過去にもこういった活動は何度もあったと思うが、今回は特に現地の映像、それも報道や防犯カメラではなく市井の人がスマートフォンで撮影したような生々しい映像を何度も見ることになったこともあってショックが大きかった。

何より衝撃だったのは、ジョージ・フロイドさんが警官によって殺害されるまさにその瞬間の映像だ。地面に組み伏せられ、ヒザで首を押さえつけられる様子を何度もリツイートやリポストの映像で目にして、毎回ひどい気分になった。

 

何が起きているのか自分なりに情報を集めてみて(もっとひどい気分になったりもしたが)わかったのは、人種差別というものは「肌が黒いからいじめられる」みたいなことだけでなく、社会構造そのものの問題であるということだ。

小沢健二のポストにあった「Racism=人種主義」という言葉も理解の助けになった。

 

news.yahoo.co.jp

fnmnl.tv

gendai.ismedia.jp

 
 
 
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こういった記事を読み進めたりするうちに、この社会構造に、自分自身が加担していないか?という疑念を抱くようになった。現代の社会システムに乗っかって生活している以上、自分だって無関係ではないと強く思ったのだ。

そう思っていた矢先にちょうど近所でデモがあるというので、これは渡りに船だ。すぐに参加します!と連絡を返した。 

何年か前に「働けECD」(植本一子)で読んだECDの「東電前に行って何をするという訳でもなく、とりあえず一度は行って自分がどう思うか知りたい」という言葉*1が心に残っていて、まさに今回、デモの現場で自分がどう感じるのか知りたいと思ったのだった。

  

・・・・・・・

 

集合場所に到着すると、既にたくさんの人が集まっている。日本人と思しき人は半分くらいだろうか。身近にこんなに外国人が生活していたのか、ということに驚いたし*2、それを知らずにいた自分を恥ずかしく思った。

スタッフの方々(ほとんどが外国人の方だ)は新型コロナ感染追跡システム*3への参加を呼びかけていたり、熱中症対策の水や塩飴を配っている。周りの人に声をかけ、アメリカ人に大統領選の在外投票を呼びかけているおばあさん(この人はたぶんスタッフではない笑)の姿も印象的だった。これが先進国市民の姿か!と目を開いた。

大阪のデモにも参加したという先輩たちも、同じく大阪でも参加したという友達と話をしている。話を聞いてみると、大阪に比べて人数は少ないが、より社会運動としての雰囲気が強いという。大阪はもっとお祭りみたいな空気感もあったよ、とのこと。

 

15時になると、デモの趣旨や背景の説明が始まった。

今月初旬に起こったジョージ・フロイドさんの事件をはじめ、無数に起こっている不当な暴力、人権侵害に対して抗議すること。そして世界中で行われているBlack Lives Matterの活動に対して連帯を表明すること。

そして、全員でこの数年に殺害された人々の名前を呼び、8分46秒間の黙祷。名前を呼ぶだけで、殺害された人たちにそれぞれ人生があったことを感じたし、目を閉じたまま過ごす8分46秒(ジョージ・フロイドさんが警察官によって首を圧迫されていた時間だ)は気が遠くなるほど長い。

 

黙祷が終わり、いよいよデモ行進だ。

どこからともなく掛け声が始まり、シュプレヒコールを上げながら四条通りを歩く。Black Lives Matter!Say his name (George Floyd)!No justice (No peace)!。

これまで何度か、河原町を歩くデモ隊の姿を見たことはあったが、実際に歩いて声を挙げるのは初めてだったが、道路を闊歩して大きな声を出すということはそれだけで痛快だ。

 

歩いていると、沿道の様子がよく見える。一時的に通行止めになっていることにあからさまな苛立ちを見せるドライバー、 しらけた顔の通行人がほとんどで、当事者に対する風当たりを実感する。なかには威嚇ともとれる態度を示す人もいる。

しかし、こちらに手を振ってくれる人や、一緒にスローガンを叫んでくれる人も少なくない。そういう人を見かけると思った以上に勇気づけられた。

 

始まるまでは短いと思っていた行進のルートは歩いてみると結構な距離で、心地よい疲労感と共にゴール地点に到着。

解散した初対面の参加者たちが、「あなたのコールよかったよ!」みたいな会話でハイタッチ(コロナ感染対策のため、肘でのタッチだった)を交わしていたのが眩しい光景だった。

 

・・・・・・・

 

終わってからツイッターで検索すると、デモに対して冷めた目線のツイートも多い。「わざわざ人通りの多い河原町でやるな」「なんで京都で?」「コロナのリスクも考えられないバカ」。もっと酷いものもある。

全く的外れな意見ばかりで馬鹿馬鹿しいが、一歩間違えると自分もそういった言葉を発してしまう可能性があるな、というのが正直な気持ちだ。実際、中学〜高校生くらいの頃は同じようなことを口にしたりしていたかもしれないし、今回まではWebやSNS以外の場所で行動を起こすこともしてこなかった。

 

しかし、今回デモに参加したことで自分の意識はより強いものになったし、不思議とBlack Lives Matter以外の社会問題に対しても敏感になった感じがしている。

そしてなぜそういう変化があったのか考えると、社会に参加しているという実感があったことが大きいように思う。

コロナ禍のオンライン化…もっと言えば学校を卒業して以来、同じような目的や問題意識を共有した人が周囲にいるという実感を得られることが少なかった。それがデモの現場では、同じような意識を持った人たちがこんなにいるのか!と感じることができた。大げさかもしれないが、これが社会か!と思い震えた。

 

 

自分が何を感じるのか知りたい、と思って参加したデモだったが、想像していた以上にいろんなことを感じられて嬉しかった、というのが感想だ。

何より、久しぶりに大勢の人と一緒にオフラインの行動を起こせたことが楽しかった。*4

 

 

*5 

 

*1:ECDの妻・植本一子さんの2011年4月15日の日記より

働けECD わたしの育児混沌記

働けECD わたしの育児混沌記

  • 作者:植本 一子
  • 発売日: 2011/08/25
  • メディア: 単行本(ソフトカバー)
 

*2:京都だけでなく関西全体から集まっていたのだろうけど、それにしても人数に圧倒された

*3:京都市のシステムを利用して、デモ参加者から新型コロナウイルスの感染者が出た場合には警告の連絡が届く仕組みになっていた

*4:念のために記載しておくが、全員マスク着用・スタッフによる消毒用アルコールの励行・ウイルス感染追跡サービスへの加入など、新型コロナウイルス対策は十分行われていた。

*5:www.tokyo-np.co.jp

Sai no Kawara / crystal-z

 

 

久しぶりに、音楽聴いてめちゃくちゃ食らってしまった。 

とにかく、まだ聴いていない人は一度最後まで聴いてください。 

 

 

 

 

 

会社のトイレでツイッターを眺めているときに冒頭のツイートが気になって、メモ代わりにいいねをつけていた。なんかいい曲なのかな、くらいに思っていたけど、家に帰ってからそういえばと再生してみるとめちゃくちゃに食らってしまって、文字通り震えた。

こんな経験を音楽にされたら、おれはこれからどんな顔してバンドとかやっていけばいいんだよ。

 

www.m3.com

 

ニュースは知っていたし、それなりに怒ったり絶望したりしたつもりだった。けど、今日この曲で受けた衝撃と比べると、全然ポーズだったというか、どこまでも他人事として受け止めていたことに気づく。

そして、その距離を埋めて余りある力がこの曲にはある。

 

歌は、目に見えないものを記録して伝えていくための「拡張子」だ。この曲の5分13秒にも、とんでもない衝撃や、悔しさ、絶望、怒りが圧縮されている。テレビやニュースサイトの画面の向こうで起こっていたことが、自分が暮らすこの国で起こっているリアルだということが嫌というほど伝わってくる。

 

一聴したときの衝撃はもちろんだけど、サウンドや歌詞、MVに至るまで、2度目3度目と発見がある。YouTubeのコメント欄では景色に言及している人もいた。ショックをぶつけただけじゃなくて、細部まで手の込んだ素晴らしい作品だからこそ伝わるものも大きいのだ。

 

 

こういう音楽が世の中を変えていくんだと思うし、そうであって欲しい。

少なくとも、おれは変わった。

 

 

  

賽の河原(読み)サイノカワラ

①冥土に至る途中にあると信じられている河原。親に先立って死んだ小児がこの河原で父母供養のために小石を積んで塔を作ろうとするが、石を積むとすぐに鬼がきてこわしてしまう、そこへ地蔵菩薩が現れて小児を救うという仏教説話がある。
②転じて、際限のない無駄な努力のたとえ。
(出典 三省堂大辞林 第三版について )